エンペリウス 四章
五節の中U
しかし、何故だ。
「西岸一と謳われる上物だ。しかと味わうが良かろう」
紫の液体がグラスに満たされる。ただそうしているだけでも、本来ならば香りにくらりと来てしまいそうな上等な酒なのだろうが、今は緊張のあまり何も感じられない。
何故だ。
「まずは舌を湿らせ、その武勇を語り聞かせてはくれぬか。北の英雄よ」
低く重く、しかしどこか色気をも孕んだ魔的な男の声にも――あるいはだからこそ――反応が難しい。
「萎縮しているのか?」
「ええ、ええ、陛下――正直、緊張が隠せませぬ」
何故、僕はイグラント王カール・ギュスタヴの前にいるのか――!
二人の宿の戸をブランゲンの兵が叩いたのは、朝も早くの事だった。寝ぼけ眼で応対したクランドに王宮の召喚状を突きつけた兵士は慇懃に頭を下げて外でお待ちします、と言った。おそらくは案内役兼監視役として遣わされたのだろうと推測したが、それよりもクランドは自分の素性が割れるのが早すぎる事にため息をついた。しかも粗方街を見終わったのを見計らってだ。最初から目が付けられていたのではないかとさえ思える。メッシェの言う通りに、防諜の水準が高いようだと思った。内憂を考えて、ユディールを出る際にも要件を隠したと言うのに。
逃げるよりは、いっそ手に乗って内部を見てくれようと誘いに乗る決断をして、クランドはブランゲン王城へと案内を受けた。そして兵に囲まれて謁見という流れになる、のだと思っていたのだが、それは予想に反し、イグラント国王との一対一での会談という形になっていた。通されたのは、ブランゲンの整理された区画がよく見える王城のテラスだった。レシイは隣の間に控えている。
クランドは手の震えを必死に抑えながら、グラスを手に取った。中身を一口舌に乗せると、言うだけあって芳醇な香りと爽やかな甘さが広がった。僅かなえぐ味がよいアクセントになっている。美味さにため息をつく振りをして深呼吸すると少しだけ落ち着いた。
「偶然、卿を見知る者がいたのは幸いであった。フェルナークの竜、グリンボウの英雄と巷間に噂されるクランド・イルマ=ユディールとは一度杯を交わしてみたかった」
「光栄にございます」
カール・ギュスタヴ・ダ・リオネース=イグラントという長いフルネームの男は、偉丈夫と呼んで差し支えない体躯の持ち主だった。クランドよりも頭二つは高い体を隅々まで鍛え上げているようで、分厚い筋肉が服の生地の上からでも見て取れる。精悍な顔立ちには戦人の証である傷が幾つも刻まれ、ただでさえ肉食動物のような雰囲気を持つ彼の凄みを増している。
覇気、あるいは威風と呼べるものは、これのことを言うのかとクランドは気圧されながら思う。
「二つ名は兎も角、英雄と称すは過分な評価かと」
「謙遜、韜晦ではないな。真にそう思っているか。伝え聞く戦いぶりでは、よき将という段階を飛び越えているが。竜を駆り自ら敵陣を打ち砕くなど、どこぞの伝説の主役のようではないか」
「がむしゃらであっただけです、陛下。味方を殺さず、かつ勝利し、最低でも生き残るためにと」
無論、表向きの建前であり、実際にはそう呼ばれるようにとの打算があったが。それ故に自分が英雄と呼ばれる事への罪悪感があるのも事実だ。計算づくで窮地を作った事すらあった。
偉丈夫はからからと笑って果実酒を含み、舌で転がしてから喉へ流し込んだ。
「軌跡さえそう呼ばるるに値するならば、それを英雄と呼んでも何の呵責もあるまい」
「本人の気持ちの問題――ですか」
「覚悟がなくとも名声は付いてくるがな。国主のたとえになるが、その本質が名君であろうと重圧に負けて堕した王は枚挙に暇がない。出来うるならば、卿にはその膝を屈してもらいたくはないものだが」
「今や領民と臣を抱える身。折れて、慕う者を路頭に迷わせる事も出来ませぬ」
「ならば統治者の先達としての忠告だ。"君たる者は常に孤高であれ"と言葉を贈らせてもらおう。多くの人を束ねる者は、何者かの情念によってではなくただ一人、己一人の意思によってのみ動かねばならぬ。己を慕う他者の意思をどれだけ汲み取ろうと、そこに阿る事だけはあってはならぬ」
誰かに流されてはいけないと。しかし――それは。
「一歩を踏み外せば、愚政に堕するのではありませぬか」
「為政と決断は別個の才だ。己のそれが政に足りぬ時はそれを持つ者に任せれば良い。実質、君主は政を知らずとも構わんのだ。人を選び、管理する才さえあればな」
イグラントでは王権が強い。ほぼ独裁の状態に至るまで集権が進み、貴族の発言力や財力は国王に比べて弱弱しいと言える。国王の意思はあらゆる物に優先するとされているが、それでもここ数代は体制が揺るいだ事がない。強権を有すると同時に厳格な王が輩出される事が多い国家であり、その背景には長期に渡って敵対していたアルテラント(現在は亡国であり、一地方としてイグラントの版図に加えられている)との対立の中で、優秀な君主が常に求められ続けたという事情もある。
「さて、イルマ卿」
クランドは佇まいを正した。雰囲気が更に硬質に変わったのを肌で感じた。鋭い目が、彼を射抜いている。
「言葉で戯れるのはいささか飽いた」
「はい」
「"あれだけ"人を送り込んでいるのだ。既に気づいていよう、余の手に」
「……話が見えませぬが」
「飽いたと申した。三度言わせるなよ」
きり、と目が細められた。威に圧される。
「ディランからも有望と聞いている。カスニムの――何と言ったか、そう。クラックス砦で竜と共に現れたと聞いた時には少々心が躍ったぞ。他での活躍が目に付かぬでもないが、ナシュトゥールやアシェラト、グリンボウでは誰しもが卿の姿を目に焼き付けたと言う。敵も、味方も。サンディゴの反乱でも、あれ程に早く、しかも被害を少なく鎮圧されるとは思わなかった。トゥーレの赤髪将軍が全て執り行っていれば、ディゴは散々な様相を晒していたであろうよ。まったく"よく立ち塞がってくれるものだ"といつも感心していた」
カスニムの野盗騒ぎまでも――ああ、そうか。この人はもしかしたら。
「この場で、ご自分の仕掛けた策の結果を晒し、陛下は何をお望みですか」
「簡単な事だ、クランド・イルマ=ユディール。我が剣となり、この大神の大地を切り伏せてみぬか」
クランドは息を呑んだ。目の前の男の威が更に増したように感じられたからだ。この場で、この時に、この言葉。並の心胆、並の君主、並の人間などではない。言葉には、一片の迷いすらもない。圧倒的な自信に満ち溢れている。
「陛下。ご存知の通り、私はノーティランの」
「その上でだ。だからこそ誘っている。余が次に見据えているのは北の大地だ。卿がいれば北方の大国と言えど一呑みに出来よう」
「……買って下さるのは光栄の極みにございますが、国許にはフェルナークの義姉もおります。それに、皇室にも――」
「ただ従えとは言わぬ。譲歩はしよう。権力は与えられぬが、助命も望むままに聞き入れよう。卿には地方の統治権をくれてやっても良い」
譲歩。
ならば。
ならば、竜谷への侵攻を止めるよう嘆願すれば、僕と竜神の契約も――。
そんな考えがクランドの頭をよぎる。この声には威厳と同時に抗いがたい魔性がある。思わず頷いてしまいそうになる。内応する将に破格の待遇――今のところ口約束ではあるが――だ。それに、時蛇の胎で今まで自ら血泥に塗れて来たのはその為だ。戦う為などではなく、自分の命を救った竜神に対しての恩義の為。それを考えれば。
「返答は如何に」
心に、首肯を邪魔するものがある。
その黄昏の髪を靡かせ、己に従いて来てくれたレシイの誇り高い姿であり。口では打算的な事を言っても、身内には甘い所ばかりのガラティアの苦笑であり。クランドが英雄である為に教え導いたメッシェの姿であり。共に剣戟を振るって戦場を駆けたルアンであり、己を頭領と慕った傭兵達であり。好意を露にして、あるいは軽い調子でささくれた気分を和らげてくれたクラエスであり、アンナマリーであったりした。同時に、それよりもずっと奥の根源的な部分も。
クランドは首を横に振った。
「魅力的なお誘いではありますが、お断りします」
「ほお」
「……私は、私を慕う者たちの思いを無碍にはできません。与えられた信頼を、親愛を、憧憬を、一顧だにもせず裏切るような真似は、できません。陛下の忠告には反するかもしれませぬが」
「ふん。小胆か?」
裏切り者と謗られるのが怖いのか、と?
それはある。だが、しかし――。
「それ以上に、陛下」
そうだ、それ以上に。条件を提示されて揺れ動いた心を繋ぎ止めた、最も大きくて、それでいて熱く心を焦がす。クランドが抱えた、何よりも非合理的な業が、何よりも強く誘惑を撥ね退けようとした。
ぎり、と唇を噛む。
言ってやる。あまりにも傲慢なこの男に。つまらなさそうにこちらを見るこの男に。
「――それ以上に。あなたは僕を餌で釣れる人間と嘗めた。己以外は卑小なりと見下す、常に自分を上に置くその目が気に入らない。僕がノーティランに作った義理だけの問題じゃない。僕があなたの誘いを拒むに至った理由は何よりも僕自身の意地だ、カール・ギュスタヴ・ダ・リオネース。はっきり言おう、僕はあなたが大嫌いだ!」
イグラント国王は愉快そうに口許を吊り上げた。
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