エンペリウス 四章

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  五節の後  

 「よく生きて帰途につけるものだ」
 「僕も不思議で仕方がないよ、レシイ」
 帰り道は馬だ。状況を考えれば兵が差し向けられても、あるいは待ち伏せされていてもおかしくはない。そもそも、あの場で兵を呼ばれて戦闘へもつれ込まなかったのが奇跡だ。無事にブランゲンから出て来られたという事自体がもはや作為的だ。
 見逃されたのだ。今ここで討っておかなければ、とさえ思われなかったのかもしれない。そう考えるとクランドは腸が煮えくりかえる思いだった。
 どことなく、口から出る言葉にも怒気が滲んでいる。
 「珍しいな。誰かに対して怒りを向けるのは。グリンボウの時もそうだったか?」
 「ああ、そうだな。あの時もそうだった。理由は違うけれど」
 今回はただ、こっちが好条件に対して勝手に怒っただけだ。クランドは吐き捨てるように言った。あれは意地が前に突っ張っただけなのだと。普段なら抑え込もう物を、あのイグラント王の前で吐き出してしまった。思い返すだに恥ずかしく、青臭い。怒りが収まらないのは、自分が話を考えもせずに蹴ったからだ。ただ、甘い物で釣ろうとしたからとそれだけの理由で。その己に苛立つ。我慢して従っていれば良かったのだ。大体、竜谷への侵攻を防ぐにしてもノーティランで出来た知人達を守るにしても、内部から働きかけてより人が死ににくい方向へ誘導するという手もあった。たとえあの場だけの口約束だとしても、それを「知らぬ存ぜぬ」で通せないように内部で勢力を拡大するという手もあった。一時の怒りで沸騰し未来の模索を投げ捨てるなど、愚の骨頂。
 「子供みたいだと笑うか?」
 「いいやクランド。愚かだがその強情さは好ましい。血属たる竜としては、主にはぶら下がった餌を跳ね除けて釣り人に叩き返すくらいの覇気があった方が嬉しいという物だ」
 くつくつと従者は笑う。
 「クランド。我が主よ。そうやって意地を張ってしまった以上、あれこれと悔やんでも仕方がない。来る闘争の季節に備えるしかない。それは分かっていよう」
 いずれにせよノーティランまで侵攻する意思があるとは言っていた。浅慮で決裂させてしまった以上は備えを急ぐしかないだろう。ガラティアやクレドピウス卿とも話さねばとクランドは思った。ノーティランは総体として見てもイグラントに劣っている。国土こそ広いが、活用されている面積や人口の分布から見ても、技術水準から見ても、イグラントより数段下だ。その自慢たる国土とて、イグラントの数倍あって"その気になればいつでも使えますよ"という訳ではない。イグラントは既に吸収した国々が有していた文化、技術、軍事力を上手く利用する手筈を整えている。クランドはブランゲンの街で、各地方の香りが入り混じったその世界を垣間見ている。だがその手段が、極めて短期間で事を成すためにと暴力的、かつ性急であった為に各所で軋轢を生んでいる事までは、彼は知らない。
 諜報の強化、想定戦域の特定、兵の増員、装備の調達。考える事はいくらでもある。クランドは馬を歩かせながら、既に戦争へ至った後の事へ思いを巡らせていた。しばらくして、彼は口を開いた。
 「イグラントの君主は侮れない相手だ。おそらく今まで見た中で一番手強い相手だとも思う。街の様子だとか政治思想だとかじゃない。レシイ、君と共有する僕の人でない部分がそう感じ取っている。そんな相手と戦争するだなんて、怖い。怖くて仕方がない」
 けれど、と彼は続けた。
 「僕の中の竜でない部分が、怖いと感じていながら同時に面白いと。やってやろうじゃないかと。香り始めた戦いの匂いに喜んでいる側面も確かにある」
 これは。彼は言葉を少しためらった。レシイは眉根を寄せた。やはり彼も気づいている。気づいていながら、言わなかっただけだ。
 「レシイ。これはやはり、血属によるものか」
 「そうだ」
 竜が闘争を好む性質と溶け合っているのだと言うと、クランドはそうか、と一言短く呟いた。沈みも浮きもしない。ただ事実を確認したのだと言いたげであった。
 「君も人に近づいているのか?」
 「是だ。私もまた、竜としての性に加えてヒトの感覚を得つつある。ヒトの性質を」
 そうか、とクランドはまた短く呟いた。
 「私もお前も、互いに消耗する事が多すぎた。これ以上は、互いの本質を見失う程に人と竜の境が渾然としてしまうかもしれない。あるいは、逆転すらも」
 「人が竜に、竜が人にか」
 「そうだ。だからイングの大封印の効力内において、これ以上過度に竜性を引き出す事は望ましくない。過ぎた使い方は身を滅ぼす」
 「それが最短距離ならば、僕は行くさ。最初から強敵であると分かっているのに死力を尽くさず、結果膝を屈するなんて、無様以外の何者でもない」
 一呼吸おいて、レシイは訊ねた。
 「勝てるのか」
 「最低でも負けなければいい。それに戦わずとも、何とかできる可能性もある」
 イグラントの北上を望まない勢力は多い。戦争は打つ手が無くなってからの手段の一つとして考えるべきだ。あの倣岸な国王は"多少の無理を押してでも"侵攻を望むかもしれないが、望まない人間も確かにいる――はずだ。そして、それを予測しない相手でもない。
 「根回しが要るな。メッシェに任せるのがいいかな。ああでも手が足りなさそうだしなあ。他領主と会談するにも格が足りないとか言われたらお終いだなあ。ああ、シュヴェーラ殿下にお願いしてみるか。それでもいいな」
 むーんと考え込んでしまったクランドにため息をついて、レシイは馬の手綱を握り直した。背から追っ手が掛かるかもしれないのだ。彼の身を守るのは、いつだってレシイの役目だった。
 さあ、我らが国へと帰ろう、クランド――。


 「陛下。帰してしまってよろしかったのですか」
 ぬるり、とテラスのカーテンの裏から男が現れた。
 「よい。追いの手も掛けぬ。その気になればあの場で縊り殺せもしようが、それでは面白くない。彼奴らには戦の火を広げてもらわねばならぬのだ。それこそ、このイングの西半を覆い尽くす程に」
 「まるで戦争狂の言い草ですな」
 「ミドール。余はまさにそれだ」
 ローブを纏った枯れ木のような男は、低く含み笑いを漏らした。
 「結局、今までの工作も明かしてしまいましたな」
 「一部に過ぎん――し、何より終わった事でもある。元より抱いていたであろう疑念が事実になっただけだ。"これがお前の敵だ"と見せてやった迄」
 「ではやはり内応の件、本気ではなかったので?」
 「あそこで頷いていれば、首を刎ねていた」
 あの竜が邪魔立てしたやもしれぬが、と苦笑する。
 「さて、魔術師よ。ディランの調練はどうか」
 「順調ですな。彼のフェルナークの竜とも、空で渡り合えるでしょう」
 「ならば良い」
 王はグラスを揺らして笑みを浮かべた。猛っている。未だ来たらぬ戦いに心躍らせて。
 「より大きな戦を。吉報を心待ちにしているぞ、クランド・イルマ=ユディール」
 己はそれを全て飲み干し、我が名を大地に刻むのだ。鉄と血と臓物で。カール・ギュスタヴ・ダ・リオネース=イグラント。その名を誰もかもが忘れられぬように。
 男は酒精を喉に流し込んだ。
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